「レイシスト」と「しばき隊」の討論、何とも不毛

 さる3月24日、東京・文京区の文京シビックホールにてブログ『日本よ何処へ』の瀬戸弘幸氏主宰により公開討論会が行われたそうだ。
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51888203.html

 これは、いわゆるヘイトスピーチデモを新大久保などで行っているグループと、アンチ・ヘイトスピーチ・グループの野間易道氏らと討論のようだ。
 その討論会は編集なしで、youtubeにアップされている。

1 http://www.youtube.com/watch?v=NhkhOVDa7qI

2 http://www.youtube.com/watch?v=b6kxBajKR58

3 http://www.youtube.com/watch?v=oEOahFRSvB8

4 http://www.youtube.com/watch?v=KkqNEVPGscU

 この全てを見るのは時間的にあまりに大変だったので、飛ばし飛ばしざっと見ただけなのだが、何とも噛み合わない不毛な議論だというのが私の印象だ。
 なぜか。野間易道氏は「考え方を変えろ」と相手の瀬戸弘幸氏に迫っている部分があったが(上記動画2の開始から8分くらいの所)、「それは無理でしょう」と思う。
 
 瀬戸弘幸氏らが繰り返すヘイト・スピーチには私も反吐が出る。だが、「考え」というのは人それぞれ。
 「どう考えようと俺の勝手だ!」と言われてしまえばおしまいだ。

 そんなことより、瀬戸弘幸氏らには無知に基づく思い込み・勘違い・事実誤認、論理展開のおかしさが酷すぎるのだ。そこをこそ突くべきだろう。

 例えば、2009年4月のカルデロンさん一家の問題での埼玉県・蕨市在特会が行ったデモ(これがヘイトスピーチデモの原点だった。)について、瀬戸弘幸氏は次のような発言をしている。(上記動画4の開始から22分30秒くらいからの所)

不法滞在者の子どもを、我々の税金を使って学校に通わせていたことを、不法滞在者の子どもだと分かっていながら学校がそれを黙認していたことを我々は怒っているのですよ」

 瀬戸弘幸氏は、その中学校(もしくは地元自治体)が勝手に不法滞在者の子どもの入学を認めたのだと思い込んでいるようだが、それは全く違う。
 文部科学省不法滞在者外国人登録がない子どもでも公立学校への入学を認めている。なぜなら、わが国が批准している社会権規約13条及び児童の権利条約28条が、締約国に在留資格に関わらずに全ての子に無償で初等教育を行うよう義務づけているからだ。
 
 地元の中学校や地元自治体が勝手に不法滞在者の子どもの入学を認めたわけではないのだ。

 文部科学省の方針に単に従っているだけなのである。

 その事実を瀬戸弘幸氏が知らないだけでしょ?

 「不法滞在者の子どもの就学に税金を使って欲しくない」と思うのは瀬戸弘幸氏の自由だろう()。
 ただ、それならそれで社会権規約や児童の権利条約の脱退運動をやるのが筋というものだ。蕨の中学校にデモをやる話じゃない。

 このように、この話は単に瀬戸弘幸氏が無知なだけなのだから、丁寧に教えてあげれば良い。
 ところが、野間易道氏はその指摘を全く行わず、「中学生の女の子にヘイトスピーチやるのは醜悪だ」の話に終始している。
 醜悪か醜悪でないかは価値観の問題だから、どこまで行っても平行線だろう。

 だがそもそも、カルデロンさん一家の問題だけをとってみても、瀬戸弘幸氏はとんでもない思い込みをしているのである。
 例えばブログ『日本よ何処へ』で、下記のようなことを言っている。

http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52219972.html

>ところが、12月になって一家3名が東京地裁に退去発布処分取消等請求訴訟を提訴します。続いて、入管に再審査情願申立てをします。平成19年5月に母親が仮放免となります。平成20年1月東京地裁において国側が勝訴判決、5月東京高裁においても国側が勝訴判決、6月一家3名が最高裁に上告及び上告受理申立てを行います。

>9月一家3名、最高裁において上告が棄却され、上告不受理の決定がなされ、同日刑が確定したわけです。行政処罰だけでなく、裁判でも適法であることが認定されております。


 「刑が確定した」とか「行政処罰」とか言っているが、強制退去処分は刑罰ではないのだよ。

 刑罰と行政処分を混同している人間がよく「法律!法律!」と吠えられるものだ。

 そして、強制退去処分の取消訴訟で国側が勝訴したととは、当該行政処分に行政庁の権限逸脱・権限濫用がなかったというだけのことである。
 法律が行政機関の裁量を認めている行為は、裁量の許されている範囲内にある限りは司法チェックは行えない仕組みになっているのだ(行政事件訴訟法30条)。
 従って、裁判所は「退去させろ」とか「退去させるのが妥当」などとは決して言っていないし、そもそもそんな判断はできない仕組みになっているのだ。

 退去させるか退去させないかは、行政が与えられた裁量の範囲内で自由に決めることが許されているのだ。
 そういう仕組みになっていることについて瀬戸弘幸氏が知らないだけ。(行政の裁量行為なんていろいろあるわけだが。鉄道の運賃の認可、自動車の運転免許、質屋の営業許可、旅館の経営許可、風俗営業の許可、マンションの建築確認、生活保護の決定、税金の賦課決定、原発の設置許可・・・・、いくらでも挙げられる。)

 さらに瀬戸弘幸氏は、長女に法務大臣が在留特別許可を出したことも問題視しているようだが、じゃあ在留特別許可は誰に出せば良いのだ? 在留特別許可とは何のための制度なのだ?

 そもそも在留特別許可というのは違法な滞在者に対して出すもの。(適法な滞在者に対してそんなもの出しようがない。)

※これについては以前の下記ブログ記事を参照されたし。
http://d.hatena.ne.jp/yubiwa_2007/20110523/1306138011

 これらの点について公開討論会で突っ込めれば面白かったと思う。

 ネット上の論争でも「在留特別許可は誰に出せば良いのだ?」の質問にまともな答えが返ってきたためしはないのだから。

(追記)
 瀬戸弘幸氏は、「我々の税金を使って不法滞在者の子どもを公立学校へ・・・」と言っているところを見ると、不法滞在外国人は税金を払っていないと思い込んでいるのかも知れないが、そんなことはない。
 不法滞在の外国人だろうと勤務先の給料からは源泉所得税が控除される。日本の税務署は不法入国者だろうと何だろうと徴税する。
 さらにカルデロンさん一家については、外国人登録もして住民税も納付していたことが報道されている。

 (改定入管法により外国人登録制度が廃止される以前は、不法滞在者であっても「在留の資格なし」のカテゴリで登録することができた。外国人登録は居住地の認定のために行うというのがその趣旨であり、それ以上のものではなかったので。)

*現実には、不法滞在者の子どもでも就学できることが周知されていない、外国人登録も未登録の場合、自治体も把握できす就学案内も送られないなどの理由で未就学児童が生み出されており、地域社会にとっても、その方が問題じゃないかと思うが、そのことはおく。
 従来、行政実務においては、不法滞在外国人の存在を把握しても、入管に通報しないという扱いがされていた。ところが、2003年から入管が自治体の外国人登録のデータを不法滞在者の摘発に使う方針に転換したため、状況が変わった。
 さらに昨年(2012年)7月から、外国人登録制度は廃止され、新たな在留管理制度になったため、未就学児童の増加が懸念されている。

<参考>
在留資格ない子どもが不就学に陥る懸念、外国人の在留管理制度7月開始
(神奈川新聞 2012年2月24日)

 入管難民法改正に伴う新たな外国人の在留管理制度の7月開始を控え、教育現場に不安が広がっている。在留資格がない子どもが不就学に陥る懸念が高まっているからだ。新制度では外国人登録を廃止。このため在留資格がなくても自治体に外国人登録することで学齢期の子どもに届いた就学通知がなくなる。政府はこれまで同様、在留資格がない子どもを学校に受け入れる方針だが、関係者は「不就学が確実に増えるだろう」と指摘している。

 現行制度では、各市町村が管内に住む外国人の住所、氏名などを記した外国人登録原票を保管し、現住所の証明や人口調査などを行っている。在留資格がなくても登録でき、オーバーステイの外国人も、子どもの就学のために外国人登録をするケースが多かった。

 改正後は、在留資格があれば法務省入国管理局(入管)が在留カードを交付し、住民票が作成される。だが、全国で7万人超とされる在留資格がない人たちの情報を把握する行政機関は、なくなる。「これらの人々は、法的にいないことになる。存在が地下化する」と懸念の声も上がる。

 日本が批准する「国際人権規約」と「子どもの権利条約」は、在留資格に関係なく学齢期のすべての子どもに教育を受けさせることを締約国に求める。このため現在、在留資格がない子どもも学校に通えている。新制度でも「すべての子に(学習権を)保障するということは、これまでと変わらない」と、文部科学省の担当者は明言する。

 だが、就学通知がなくなることで不就学児の増加を予想する関係者は多い。

 「親は(入管への)通報が怖くて学校に通わせられないだろう。また、在留カードがないので受け入れないと、安易に考える教育委員会が出ることもあり得る」と、外国人問題に詳しい山口元一弁護士。就学率を上げるには、「通報はしない」と明言し、さまざまな言語で就学を促す告知をする必要があるとする。

 本人や親が外国籍という生徒が3割以上を占める横浜市立中学校の校長は「入学通知は出したほうがいい。地域でぽつんとしている子を減らすためにも、積極的に教育を受けさせてほしい」と期待。一方、オーバーステイの子を受け入れた場合の公的機関としての通報義務について悩む横浜市立小学校校長もいる。

 入管は、不就学児増の懸念について「ルールを守ってもらうのが前提だが、就学自体はこれまで同様の扱いだということにつきる」(参事官室)と言葉少な。通報義務については「通報で守られるべき利益と、職務が円滑に遂行できるかを比べて、自治体が判断する。経験上、学校からの通報はこれまでない」(警備課)と話している。

 ◆新在留管理制度 日本に在住する外国人の情報を継続的に把握し、適法に在留する外国人の利便性を向上させるためなどとして、2009年7月に公布された改正入管難民法に基づき7月9日に開始。在留期間の上限を5年に延ばすほか、在留資格を持つ中長期滞在者に在留カードを発行し、それを基に市町村で住民票が発行される。

君が代起立訴訟・最高裁判決は何を言っているのか

 君が代斉唱時に起立を求める職務命令の合憲性等が争われた事件について、最高裁は当該職務命令は合憲だとする判決を相次いで出しました。
 この一連の最高裁判決について「赤教師敗訴だ。ザマミロ」みたいな書き込みもネットで散見されます。
 ↓こちらのように

『花うさぎの「世界は腹黒い」 日本が普通の国になるように。産経新聞を応援しています。』
最高裁の合憲判決、君が代論争に決着! 日の丸・君が代に異を唱える左翼教職員を公立学校から追放せよ!」
(2011/05/31 08:09)
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/2304261

 当然の判決です。というか、起立命令だけでなく、国旗掲揚・国歌斉唱を公立学校の入学式や卒業式などの重要な式典で実施する際に、妨害はもちろん、口パクもふくめて非協力な教職員は、あらかじめ懲戒解雇と決めておけばよいのです。更に踏み込めば、教職員として採用する際の条件として誓約書を書かせる、イヤなら不採用、これが当然でしょう。
 個人の思想信条の自由?。国の存在の核心部分の前にはそのような自由はありません。そんなことは民間の学校や企業でやれば良いだけであって、国の象徴である国旗・国歌を蔑ろにして訴訟に持ち込むような左翼は、積極的に排除すべきです。どうしてもやりたかったら、支那中共でも韓国でも、好きな国にいって「存分にやれ!」といいたい。

とブログに書いて大喜びしている方もいらっしゃるようです。

 こういう方々を喜ばせるようなことを最高裁は言っているのでしょうか? 合憲か違憲かの結論にだけ関心が行きがちかも知れませんが、どのようなロジックを用いて最高裁憲法判断を行ったのかという点についてもしっかり読み取る必要があります。
 では、判決を具体的に見ていきましょう。
 
 最初に出された今年5月31日の第二小法廷判決*1では

起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。また,上記の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。

としながら、続けて

 もっとも,上記の起立斉唱行為は,教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって,一般的,客観的に見ても,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。

と述べられています。即ち、教員に起立斉唱を命じることが思想・良心の自由違反の問題になりうること自体は認めているのです。
 その前提の上で

 そこで,このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。

と、「間接的な制約について」は「必要かつ合理的なものである場合」には許されると言っています。
 そして

そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。

と述べています。
 当該職務命令の目的・内容、それによって生ずる制約の態様などから教員の思想・良心の自由(=「日の丸」「君が代」に敬意を表明しない自由)の制約が許されるだけの必要性・合理性があるか否かという点から当該職務命令の合憲性は判断されるとしています。
 つまり、教員の思想・良心の自由と当該職務命令の目的等との比較較量によって合憲か違憲かは決まるというものです。もうちょっと分かりやすく言うとすれば、教員の思想・良心の自由と職務命令の目的等の両者を天秤にかけ、前者の方が重ければ職務命令は違憲、後者が重ければ職務命令は合憲というものです。

 このような判断基準を本件にあてはめ、

 これを本件についてみるに,本件職務命令に係る起立斉唱行為は,前記のとおり,上告人の歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに対する敬意の表明の要素を含むものであることから,そのような敬意の表明には応じ難いと考える上告人にとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為となるものである。この点に照らすと,本件職務命令は,一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるものであり,それが結果として上記の要素との関係においてその歴史観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で,その限りで上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものということができる。
 他方,学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。法令等においても,学校教育法は,高等学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ(同法42条1号,36条1号,18条2号),同法43条及び学校教育法施行規則57条の2の規定に基づき高等学校教育の内容及び方法に関する全国的な大綱的基準として定められた高等学校学習指導要領も,学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めているところであり,また,国旗及び国歌に関する法律は,従来の慣習を法文化して,国旗は日章旗(「日の丸」)とし,国歌は「君が代」とする旨を定めている。そして,住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項,地方公務員法30条,32条)に鑑み,公立高等学校の教諭である上告人は,法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にあるところ,地方公務員法に基づき,高等学校学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した本件通達を踏まえて,その勤務する当該学校の校長から学校行事である卒業式に関して本件職務命令を受けたものである。これらの点に照らすと,本件職務命令は,公立高等学校の教諭である上告人に対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって,高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,かつ,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。
 以上の諸事情を踏まえると,本件職務命令については,前記のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。

として、

 以上の諸点に鑑みると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。

と、本件については合憲の判断を行ったのです。

 あくまで比較較量の結果なのですから、場合によっては(本件で問題になったのは再雇用拒否処分ですが、例えば起立斉唱を拒否した教員を懲戒免職処分にした場合などは)制約の度合いが強過ぎるとして違憲ということも十分考えられるのです。

 この点で本判決においては4人の裁判官のうち、竹内行夫裁判官が補足意見で

外部的行動に対する制限を介しての間接的な制約となる面があると認められる場合においては,そのような外部的行動に対する制限について,個人の内心に関わりを持つものとして,思想及び良心の自由についての事実上の影響を最小限にとどめるように慎重な配慮がなされるべきことは当然であろう。

と述べており、須藤正彦裁判官は補足意見で

最も肝腎なことは,物理的,形式的に画一化された教育ではなく,熱意と意欲に満ちた教師により,しかも生徒の個性に応じて生き生きとした教育がなされることであろう。本件職務命令のような不利益処分を伴う強制が,教育現場を疑心暗鬼とさせ,無用な混乱を生じさせ,教育現場の活力を殺ぎ萎縮させるというようなことであれば,かえって教育の生命が失われることにもなりかねない。教育は,強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであって,上記の契機を与えるための教育を行う場合においてもそのことは変わらないであろう。その意味で,強制や不利益処分も可能な限り謙抑的であるべきである。のみならず,卒業式などの儀式的行事において,「日の丸」,「君が代」の起立斉唱の一律の強制がなされた場合に,思想及び良心の自由についての間接的制約等が生ずることが予見されることからすると,たとえ,裁量の範囲内で違法にまでは至らないとしても,思想及び良心の自由の重みに照らし,また,あるべき教育現場が損なわれることがないようにするためにも,それに踏み切る前に,教育行政担当者において,寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれるところである。

と述べており、千葉勝美裁判官も補足意見で

 2 本件のような国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて
 (1) 職務命令として起立斉唱行為を命ずることが違憲・無効とはいえない以上,これに従わない教員が懲戒処分を受けるのは,それが過大なものであったり手続的な瑕疵があった場合等でない限り,正当・適法なものである。しかしながら,教員としては,起立斉唱行為の拒否は自己の歴史観等に由来する行動であるため,司法が職務命令を合憲・有効として決着させることが,必ずしもこの問題を社会的にも最終的な解決へ導くことになるとはいえない。
 (2) 一般に,国旗及び国歌は,国家を象徴するものとして,国際的礼譲の対象とされ,また,式典等の場における儀礼の対象とされる。我が国では,以前は慣習により,平成11年以降は法律により,「日の丸」を国旗と定め,「君が代」を国歌と定めている。入学式や卒業式のような学校の式典においては,当然のことながら,国旗及び国歌がその意義にふさわしい儀礼をもって尊重されるのが望まれるところである。しかしながら,我が国においては,「日の丸」・「君が代」がそのような取扱いを受けることについて,歴史的な経緯等から様々な考えが存在するのが現実である。
 国旗及び国歌に対する姿勢は,個々人の思想信条に関連する微妙な領域の問題であって,国民が心から敬愛するものであってこそ,国旗及び国歌がその本来の意義に沿うものとなるのである。そうすると,この問題についての最終解決としては,国旗及び国歌が,強制的にではなく,自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要であるということを付言しておきたい。

と述べていて、過度な強制を戒めている点が注目されます。

 このように最高裁は、産経新聞を応援していらっしゃる「花うさぎ」さんのように「国の存在の核心部分の前にはそのような自由はありません」などと言っているわけではないようです。「日の丸・君が代に異を唱える左翼教職員を公立学校から追放せよ!」なんてことも勿論言っていません。むしろ、裁判官の多数が「花うさぎ」さんのような考え方を戒めているのです。

 さらに言うと、職務命令それ自体は合憲だとしても、それに違反した教員に対する懲戒処分等が裁量権の逸脱・濫用により違法になるということは十分あり得ます。
 この点について、本判決でも須藤正彦裁判官が補足意見で

 なお念のために付言すれば,以上は飽くまで憲法論であって,職務命令違反を理由とする不利益処分に係る裁量論の領域で,日常の意識の中で国のことに注意を向ける契機を与えるために,起立斉唱がどれほど必要なのか,卒業式はその性格からしてそれを行う機会としてふさわしいのかなどの方法論や,不起立によってどのような影響が生じその程度はいかほどか,不利益処分を行うこととその程度は行き過ぎではないかといった点を考量した上で,当該処分の適法性を基礎付ける必要性,合理性を欠くがゆえに,当該処分が裁量の範囲を逸脱するとして違法となるということはあり得る。

と述べています。

 それにしても、一連の最高裁判決が、本件が「間接的な制約」であることを理由に緩やかな審査基準で合憲性を審査したことは適切ではないと私自身は思います。精神的自由権の優越性から言って、ここはいわゆる「厳格な基準」によって合憲性を審査するべきだったでしょう。
 この点で、6月6日の第一小法廷判決*2における宮川光治裁判官の反対意見が適切・妥当なものだと思います。
 宮川裁判官は

 本件各職務命令は,直接には,上告人らに対し前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を持つことを禁止したり,これに反対する思想等を持つことを強制したりするものではないので,一見明白に憲法19条に違反するとはいえない。しかしながら,上告人らの不起立不斉唱という外部的行動は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるか,少なくともこれと密接に関連している可能性があるので,これを許容せず上告人らに起立斉唱行為を命ずる本件各職務命令は憲法審査の対象となる。そして,上告人らの行動が式典において前記歴史観等を積極的に表明する意図を持ってなされたものでない限りは,その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的になされるべきであると思われる。

と述べ、さらに

 上告人らの主張の中心は,起立斉唱行為を強制されることは上告人らの有する歴史観ないし世界観及び教育上の信念を否定することと結び付いており,上告人らの思想及び良心を直接に侵害するものであるというにあると理解できるところ,多数意見は,式典において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではないとしている。多数意見は,式典における起立斉唱行為を,一般的,客観的な視点で,いわば多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる。およそ精神的自由権に関する問題を,一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でないと思われる。なお,多数意見が指摘するとおり式典において国旗の掲揚と国歌の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であるが,少数者の人権の問題であるという視点からは,そのことは本件合憲性の判断にはいささかも関係しない。

と多数意見を批判しています。

「ロッキード事件Q&A」の間違い(Apeman氏の誤り・その4)

 id:Apeman氏の『ロッキード事件Q&A 裁判編』というブログ記事を、ちらっと見ました。

 ↓こちらです。
http://apesnotmonkeys.cocolog-nifty.com/log/2005/10/qa_5113.html

 予想どおりと言うべきか、予想以上と言うべきか、おかしな記述が数多く出てきます。
 その中でとりわけ気になるものがあったので、取り上げてみます。

Q2 ロッキード裁判では被告の反対尋問権が奪われたというのは本当ですか?
A2 嘘です。この種の裁判批判は、コーチャン、クラッターらロッキード側の証人に対して行なわれた嘱託尋問の調書が証拠採用されたことを問題にしています。コーチャンらはロッキード裁判の公判に証人として出廷したことがありませんので、公判での主尋問に対する反対尋問はもともと問題になりません。したがって、嘱託尋問調書の証拠採用が実質的に被告の反対尋問権(憲法37条2項)を奪うことになったかどうか、が問われなければなりません。
 この嘱託尋問調書は刑事訴訟法321条1項3号に基づいて一審、二審では証拠採用されました。刑訴法321条はそもそも「公判前に証言を文書のかたちで残した証人が公判に証人として出廷できない場合」にその文書を証拠として採用できる要件を規定した、刑訴法320条の原則に対する例外規定なのです。したがって、件の嘱託尋問調書が刑訴法321条1項3号の要件をみたしている限り(そして一、二審はみたしていると判断しました)、被告の反対尋問権を侵害することにはなりません(これについては最高裁判例もあります)。

 刑事事件で訴えられた者は「被告」ではなく「被告人」ですね。
 まあ、こういう用語の問題はともかくとして・・・・。
 A2の前段の「公判に証人として出廷したことがありませんので、公判での主尋問に対する反対尋問はもともと問題になりません。」というのは明らかにおかしい記述です。公判に出廷していない(=反対尋問をなしえない)からこそ、その者の供述を証拠として扱って良いかが刑事被告人の反対尋問権保障との関係で問題になるということは拙ブログにて既に述べたとおりです。
 が、これについてはApeman氏も、その記述の後で「したがって、嘱託尋問調書の証拠採用が実質的に被告の反対尋問権(憲法37条2項)を奪うことになったかどうか、が問われなければなりません。」と述べているので、まあまあ良しとしましょう。(「したがって」の前後が論理的に繋がらないような気もしますが、これにも目をつぶることにしましょう。)
 けれども、このA2の後段はどうなのでしょうか? 前段で「実質的に被告の反対尋問権(憲法37条2項)を奪うことになったかどうか、が問われなければなりません。」と、被告人の憲法上の権利の侵害にならないか(憲法37条2項に違反しないか)と問題提起しておきながら、後段では「刑訴法321条は・・・・刑訴法320条の原則に対する例外規定なのです。」「刑訴法321条1項3号の要件をみたしている限り・・・・被告の反対尋問権を侵害することにはなりません」と刑訴法321条という法律の規定の存在を理由として(憲法上の権利だとApeman氏もいう)被告人の反対尋問権を侵害することにはならないと結論づけてしまっています。
 憲法違反にならないかと自分で問題提起していながら、憲法上の理由を全く述べずに合憲か違憲かの結論を出してしまっているのです。

 当該嘱託尋問調書の証拠能力を認めることについて合憲と結論しようと違憲と結論しようと、その結論自体は間違いだとは言えません。(論理上はどちらの結論も考えられます。)
 けれども、合憲か違憲かの問題で、憲法上の理由を述べずに(法律の規定の存在と、その法律の規定の要件を満たしていることを理由にして)結論を出してしまうというのは論理として成り立ちません。

 Apeman氏が憲法と法律の関係(憲法と法律が上位規範・下位規範の関係にあること)という基本中の基本を全く理解していないということが、このブログ記事からも確認できます。


※Apeman氏は「これについては最高裁判例もあります」と述べていますが、嘱託尋問調書の証拠採用について被告人の反対尋問権を侵害せず合憲との最高裁判例はありません。

※これらの点について私より以前に的確な指摘をされている「法律家ですが・・・」さんに対してApeman氏は

『Apes! Not Monkeys! 本館』
「自爆(追記あり)」(2010-10-08)
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101008/p2

自称法律家氏へ

法律家を自称しておきながら、具体的な裁判が問題になっているときに何一つ具体的な議論ができない人間の発言から学ぶことなんて何一つありません。

>これらは全く逆に『供述調書として証拠申請されているのだからこそ反対尋問の機会の保障が問題となる』の誤りでした。

裁判の具体的な経緯を知っていれば、これがデタラメであることがわかるはずです。

>これも憲法が上位規範で法律は下位規範であることを見落とした,誤った主張でした。

裁判の具体的な経緯を知っていれば、これがナンセンスであることがわかるはずです。

(2010/10/10 15:02)

自称法律家氏へ

>しかし,実際にあなたが言っていたことの中には,法的・論理的に誤ったものが含まれていたことはこれまで指摘しているとおりです。

いいや、そんな指摘なんてなかったね。「事件および裁判についての具体的な知識に基づいた議論」をしているところに抽象的な原則論を振りかざしたいちゃもん、ならあったけどね。

>ただ,議論の中で誤った知識と論理を用いることはやめて下さい,というだけの話なんです。

じゃあまずそれを指摘してみせろよ、ってはなしですな。きちんと文脈を踏まえた上で。

(2010/10/10 22:21)

などと返すなど、自分が何を批判されているのかさえ理解できない様子です。*1
 
 上記のコメント欄でApeman氏は

つーか、何度言っても「こちらの反論の仕方は相手の議論の立て方に左右される」というごく当たり前のことが理解できないようだな。例えば刑訴法226条は検察が「取調べ」を行なうための規定だと思い込み、憲法76条3項は裁判官に「明文規定にならないようなことはなに一つするな」と命じていると思い込み、かつ刑訴法294条が裁判長が公判において休憩を宣する権限の「明文規定」であるというフリーダムな「明文規定」概念をもっているネスレくんみたいなのを自分で説得してみるとよくわかるよ。自分でやってみたら?
(2010/10/14 10:39)

と「法律家ですが・・・」さんに対して仰っていますが、公判に出廷していない証人の供述の証拠採用には被告人の反対尋問権保障が問題になることはありえないと思い込み、法律の存在をもって合憲か違憲かの結論を出してしまい、かつそれらの間違いを批判されても自分が何を批判されているのかさえ理解できないでいるApeman氏みたいなのを説得するのは確かに容易なことではありません。

*1:Apeman氏は自分が何を批判されているのかも分からないまま、「宿命的な類似性」http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101010/p2という記事も書いているようです。「角栄擁護論がダメダメな理由」http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101012/p1のコメント欄でも、やはり自分が何を批判されているのか理解できない様子です。

議論態度について(Apeman氏の誤り・その3)

 id:Apeman氏の誤りについての記事を連続して書いてきました。言うまでもないことかも知れませんが、私はApeman氏の「意見」を批判しているのではなく、あくまで法律上の「知識」の誤り、「論理」の誤りを指摘しているだけのものです。 
 さて、このロッキード事件の刑事裁判における嘱託証人尋問調書の証拠能力の問題についてのApeman氏のブログ記事の誤りは、纏めると

(1)刑事被告人の反対尋問権保障が問題になるのはどのような場面であるのかについての間違い
(2)憲法と法律の関係(憲法と法律が上位規範・下位規範の関係にあること)についての間違い

ということになるでしょう。
 これらは、ごくごく基本的なことなのですが、その基本事項について理解しないまま(誤った思い込みのまま)ブログ記事を書いてしまったことに問題があるのだと言えるでしょう。
 けれども、これらはApeman氏にとってはおそらく専門外のことでしょうから、誤って理解していたとしても、そのこと自体はそんなに恥じることではないでしょう。誤りは誤りとして直せば良いことです。
 では、Apeman氏は指摘を真摯に受け止め、誤りなら直そうという姿勢をとられているのでしょうか?

 上記の誤りについては、私が指摘する以前に、当該ブログのコメント欄で明らかに専門家であると思われる人から適切な指摘がなされています。

『Apes! Not Monkeys!』
小室直樹って…」
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C646496243/E735228537/index.html

 その専門家氏(「法律家ですが・・・」さん)のコメントは

法律家ですが・・・
小室批判の当否等はさておき,Apemanさんの法律解釈・理解は極めて不正確です。
「これは贈賄側であるロッキード社のコーチャン、クラッターへの嘱託尋問調書が証拠採用された件 を指していっているのだが、
2人は裁判に証人として出廷してはいない。それゆえ、そもそも反対尋問が問題になることなどあり得ない」とか
「コーチャンらの証言は供述調書 として証拠申請されているのだから、そこに「反対尋問」が問題になる余地はありません」などというのは
などというのは全く誤った理解で,反対尋問権というものの法的な位置付けを理解しておられないものと受け止めるほかありません。
また,「刑訴法321条は反対尋問を経ていない供述調書を証拠採用してよい場合についての規定なのです。そこでは反対尋問がなかったことは前提になって ます。」
ともおっしゃっておられますが,憲法違反との主張に対して「法律に規定があるのだから・・・」などと反論するというのも議論の仕方として誤っています。
憲法に適合するように法律は解釈されなければならないのであり,その逆ではないからです。
したがって,「渡部昇一小室直樹の議論は問題の立て方がそもそも間違っている」のではなく,あなたの方が問題の立て方としては誤っているのです(結論の当否はまた別です)。
以上については,いわゆる「人権派弁護士」らに特殊な理解ではなく,一般的な,法的な議論の前提ないし基礎というべきものですので
まずは法学や憲法刑事訴訟法の標準的な教科書をお読みいただくことをおすすめします。
(2010年8月10日,1:36:18)

というもので、極めて適切・妥当な指摘です。
 ところが、この専門家からの指摘に対するApeman氏の応答は次のようなものです。

「法律家ですが・・・」って、嘘つくなよ(笑) くだらないハッタリなんて通用しないんだよ。じゃあ、オレも法律家ってこと
にするよw
そもそも、更新停止を明言しているブログにコメントって、どういう了見なんだ? ちゃんと生きている別のブログや掲示板への
リンクもはってあるのに。まともな議論をする自信がないんだろw
(2010年8月10日, 21:43:45)

要するに、個別の裁判の具体的事情に即したことはなに一つ語れない自称「法律家」だった、ってことで一件落着ですな。
まあ、そういう手合いはあなたが初めてではなく、ごく一部の例外を除いてあなたみたいなのばっかりでしたから、そう
がっかりしなくてもいいでしょう。「法律家」を自称したのは失笑ものでしたけどね。
(2010年10月3日, 22:04:59)

 「どこのネットチンピラか」という調子ですが、まぎれもなくApeman氏のコメントです*1
 (Apeman氏は「ニセ法律家」と決め付けているようですが、書かれている内容からして、この方が本職の実務法律家であることはほぼ間違いないでしょう。)

 この“議論”は、↓こちらのコメント欄へと続きます。

『Apes! Not Monkeys! 本館』
「自爆(追記あり)」(2010-10-08)
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101008/p2

 ここでもApeman氏は

法律家を自称しておきながら、具体的な裁判が問題になっているときに何一つ具体的な議論ができない人間の発言から学ぶことなんて何一つありません。
(2010/10/10 15:02)

つーか、自称法律家氏のコメントを読んでいると、問題の所在をまるで理解できていないことが丸わかりで、他人事ながら赤面してしまいます。
(2010/10/10 15:03)

論点をずらしてるのはあんたらの方なんだよ。「反対尋問権は大切だ」なんて抽象的な水準のことははなっから問題になってないの。それが問題だと言い張ることこそ「論点ずらし」なんだよ。
(2010/10/10 16:43)

まああれですよ、「法律家」を名乗ればたちどころに相手がひざまずくだろうってガキみたいなこと考えてたのに、思い通りにいかないもんだから拗ねてるんですよ。
(2010/10/11 08:40)

などと相手に悪罵を投げつけるだけの対応になっています。

 見かねて私がApeman氏を諫めるためにコメントを書き込みました。それに対するApeman氏の対応は、旧知の私に対するものだけに、上記の専門家の方に対するものに比べたら抑制されたものにはなっています。
 ただ、

あなたが私の反論(そしてそれは私だけからなされたのではないわけですが)を完全に無視している以上、私としてはこの件についてあなたとこれ以上議論するつもりはありません。
もし、自分がなじんでいるフォーマットを使っていない議論をその具体的文脈や内的論理に即して読もうとせずに「憲法と法律との関係をわかってない!」と裁断するのが法曹関係者の発想なのだとしたら、裁判員裁判の評議でどのようなことが行なわれているのか、非常に心配になってきました。
(2010/11/15 23:05)

 専門家の方も私も法律上の知識や論理の初歩的な誤りを指摘しているだけです。「具体的文脈」も「内的論理」も何もありません。間違いは間違いなのであって、それ以上でもそれ以下でもありません。

 ↓こちらにも私へのApeman氏のコメントがありますが、

『Apes! Not Monkeys! 本館』
角栄擁護論がダメダメな理由」(2010-10-12)
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101012/p1

要するにyubiwa_2007さんとしては相手の主張をその固有の文脈と内的論理に即して読むつもりがなく、自分がなじんでいる論証のフォーマットにあわせて「ここが足りない、あそこがはみ出てる」とやっているだけだ……ってことをはっきりと示していますね。
(2010/10/28 18:02)

 勿論、私は「自分がなじんでいる論証のフォーマットにあわせて『ここが足りない、あそこがはみ出てる』とやっている」のではありません。単に法律上の初歩的な間違いを指摘しているだけです。

 最後に「小室直樹って…」のブログ記事からApeman氏の文章を引用します。
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C646496243/E735228537/index.html

そりゃあ、人間誰しも間違いはおかす。研究者だって専門分野ですらミスを犯すのだから、専門外のことでならなおさらである。また、間違いを素直に認めたくないというのも人情である。しかし、少しでも言い逃れの余地のあることで突っ張るならともかく、これほど申し開きのしようのないウソを強弁し続ける神経は理解を絶する。突っ張れば突っ張るほどバカに見えるだけだというのに。

 ↑この文章は小室直樹氏と渡部昇一氏への批判なのですが、これらが全てApeman氏自身にそっくり当てはまってしまうのが残念です。

 さらに、↓こちらのApeman氏のブログ記事

『Apes! Not Monkeys! 本館』
「宿命的な類似性」(2010-10-10)
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101010/p2

第三に正しい知識に基づいた議論をしていただきたい。渡部氏の法律に関する知識はその根本的な基礎において欠けておられるようなので、基礎だけでも一応の勉強をなさってから、論じていただきたい。

上記は、立花隆氏の渡部昇一批判の文章の引用ですが、これもまたApeman氏にそっくり当てはまってしまいます。

※Apeman氏は「ロッキード裁判」というカテゴリーを作って「小室直樹って…」以外の記事も書いているようです。けれども、「小室直樹って…」がこれほどひどい内容なのですから、ひどいのは「小室直樹って…」だけで他の「ロッキード裁判」記事はまともだとは、とても予想できません。他の記事はもっとひどいのかも知れないとも思えるので、恐ろしくて見る気が起きません。

*1:別人がApeman氏を貶めるために、Apeman氏になりすまして書き込んでいるのかと最初疑いましたが、Apeman氏自身のブログですので、やはりApeman氏ご本人なのでしょう。

憲法と法律の関係(Apeman氏の誤り・その2)

 前回の続きです。

『Apes! Not Monkeys!』
小室直樹って…」
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C646496243/E735228537/index.html

 ↑このid:Apeman氏のブログ記事の主題は、ロッキード裁判についての小室直樹氏の「嘱託尋問調書の証拠採用は反対尋問がなされていないので、違憲だ」との言説に対する批判・反論のようです。
 「小室直樹は間違っている」との結論の当否自体はともかく、Apeman氏は間違った法律知識を基に議論を展開している、というのが私が前回述べたことです。
 Apeman氏の言説をさらに見ていきましょう。

 上記ブログ記事のコメント欄で、Apeman氏は小室直樹氏の「嘱託尋問調書の証拠採用は反対尋問がなされていないので、違憲だ」の主張に対し、次のような反論を行っています。(問題の部分を太字にしました。)

出廷した証人に関しては言うまでもなく「反対尋問が可能」であり、現実に検察側・弁護側双方のほとんどの証人について反対尋問が行われてます。
他方、コーチャンらの証言は供述調書として証拠申請されているのだから、そこに「反対尋問」が問題になる余地はありません。刑訴法321条は反対尋問を経ていない供述調書を証拠採用してよい場合についての規定なのです。そこでは反対尋問がなかったことは前提になってます。したがって、渡部昇一小室直樹の議論は問題の立て方がそもそも間違っているのです。
(2010年6月3日, 12:56:52)

 違憲だ」との主張に対し、「法律の規定がある」との反論はありえないでしょう。
 「自衛隊は、憲法9条2項が保持を禁じた『戦力』にあたる。違憲だ」との主張に対し、「自衛隊法がある」と言って反論するようなものです。
 あるいは、「死刑は、憲法36条が禁じている『残虐な刑罰』にあたる。違憲だ」との主張に対し、「刑法に死刑制度がある」と言って反論するようなものです。
 Apeman氏はこのような反論が論理的に成り立つと思っているのでしょうか?

 被告人の反対尋問権の問題に戻ると、これの保障を規定した憲法37条2項前段は例外を許さない趣旨ではないと解されています。従って、場合によっては伝聞証拠に証拠能力を認めても違憲とはならないと解されます。
 この「違憲とはならない」とは憲法の規定の解釈の結果、そうなると言うのであって、法律の規定が存在するからそうなるのではありません。
 「法律の規定の存在は違憲でないことの確認である」と言うのなら分かりますが、「法律の規定があるのだから違憲説は間違っている」という主張は論理的に成り立ちません。
 上記引用の発言を読む限り、Apeman氏は、憲法と法律が上位規範・下位規範の関係にあるということを理解していないのだと言わざるを得ません。

 上記のApeman氏の発言に対しては、さすがに専門家と思われる人から適切な批判のコメントが寄せられました。
 これに対して、Apeman氏は上記発言の撤回・訂正は行わないまま、発言を少し変えました。

刑訴法321条については合憲とする最高裁の判決があるんだから、「反対尋問してない、違憲!」なんて幼稚な主張は通用しない。
(2010年9月19日, 14:04:38)

 この“議論”は、↓こちらのApeman氏のブログ記事のコメント欄へと続きます。

『Apes! Not Monkeys! 本館』
「自爆(追記あり)」(2010-10-08)
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101008/p2

 そこでは、

この際だからこっちからも自称法律家氏に質問しておこう。
(a)法律家を自称するあなたは、刑訴法321条が憲法37条2項に反しないという最高裁判例があることを知っているか?
(b)そのような判例がある限り、ただただ「反対尋問を経ていない供述調書を証拠採用した裁判は暗黒裁判だ」というだけの主張には、裁判論としてはこれっぽっちも価値がないことが理解できるか?
(2010/10/10 15:12)

 さらに

(e)コーチャンらの尋問調書は刑訴法321条に基づいて証拠採用された(一審、二審では)ことを知っているか?
(f)刑訴法321条は公判に証人として出廷しない供述者の供述書を証拠採用することを許容していることは知っているか?
(a)法律家を自称するあなたは、刑訴法321条が憲法37条2項に反しないという最高裁判例があることを知っているか?
(g)そのような判例がある以上、コーチャンらの調書の証拠採用を(刑訴法321条との関連で)批判するには(i)刑訴法321条(ないしその一部)が違憲であることを新たに論じるか、(ii)コーチャンらの調書が刑訴法321条(1項3号)の要件を満たさないものであることを論じるか、いずれかを行なわねばならないことが理解できるか?
(2010/10/10 16:52)

反対尋問を受けていない供述者の供述者を証拠として採用することを許容している条文があり、その条文を合憲とする最高裁判例があり、その上でその条文に基づいて採用された供述調書に関してただただ「反対尋問を経ていないから違憲だ!」とわめいてもなんの意味もない。私が一貫して言っているのはこれなんだよ。
(2010/10/10 16:58)

 どうもApeman氏は、伝聞例外を許容した刑訴法321条の規定は憲法37条2項に反せず合憲だとの最高裁判例があるので、そのように刑訴法321条の規定が合憲だとの前提に立つ限り、個別事件における伝聞証拠の証拠採用についての違憲主張は成り立たないと考えているようです*1
 このApeman氏の主張は、↓こちらのブログ記事へと続きます。

『Apes! Not Monkeys! 本館』
角栄擁護論がダメダメな理由」(2010-10-12)
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101012/p1

 けれども仮に法令自体は合憲だとの前提に立とうとも、それが憲法で保障された権利・自由を侵害するような形で適用した場合には違憲になることは十分にありうるものです*2
 伝聞証拠の問題で言えば、伝聞例外を許容した刑訴法321条以下の規定そのものは合憲だとしても、個別事件における伝聞証拠の証拠採用が、憲法が刑事被告人の反対尋問権を保障した趣旨を没却するものとして違憲になるというのはあり得るものです。
 また、刑訴法の伝聞例外について、特に問題になる検察官面前調書(321条1項2号)について、標準的な刑訴法の教科書には、次のようにあります。

「問題となるのは、捜査書類である検面調書の合憲性であるが、一定の厳格な要件の下では合憲と認めてよいであろう」
(田口守一『刑事訴訟法』〔第三版〕弘文堂、329頁)

「問題となるのは、後段の合憲性についてである。後段を合憲と解するためには、書面への反対尋問が十分になされることが条件となる。判例も、「これらの書面はその供述者を公判期日において尋問する機会を被告人に与えれば、これを証拠とすることができる」としている。」
(同書、329頁)

 このように学説は、検面調書について合憲限定解釈*3をした上で合憲だとしているわけです(最高裁判例もその立場)。
 従って、いくら刑訴法321条以下の規定そのものは合憲だとしても、個別事件における伝聞証拠の証拠採用について憲法が要求している解釈を行わなければやはり違憲となりうると考えられるのです。
 つまり、ロッキード裁判における嘱託尋問調書の合憲性の議論で問題になるのは、同調書の証拠採用が刑事被告人の反対尋問権を保障した憲法37条2項前段の趣旨に反するかどうかということなのであって、(憲法の下位規範である)法律に規定があるかどうかとか、その法律の要件を満たしているかどうかではありません。(勿論、法律の規定そのものが合憲かどうかだけが問題になるのではありません。)
 即ち、法律上の要件を満たしているかではなく、憲法上の要件を満たしているかどうかの問題なのです。

 Apeman氏は、憲法と法律の関係(憲法と法律が上位規範・下位規範の関係にあること)について、殆ど分かっていないようです。(少なくとも、その整理が頭の中で十分できていないようです。)

*1:Apeman氏は、最高裁判例を絶対視しているようでもありますが、勿論そのような見方にも問題があります。例えば、非嫡出子の法定相続分を嫡出子の二分の一としている民法900条4号但書について最高裁判例は合憲としていますが、私は違憲だと考えているし、そう主張することには意味があるとも考えます。Apeman氏は、これについても「民法900条4号但書については合憲とする最高裁の判決があるんだから、『非嫡出子の差別だ、違憲!』なんて幼稚な主張は通用しない」と言われるのかも知れませんけど。

*2:このような適用違憲の手法を用いた裁判例として有名なものに家永教科書訴訟における杉本判決(東京地判昭和45年7月17日判時604-29)があります。杉本判決は「現行教科書検定制度そのものは違憲でない」としたものの「その運用を誤るときは憲法の保障する表現の自由を侵害するとのそしりを免れない」として、本件検定不合格処分について「教科書執筆者としての思想(学問的見解)内容を事前に審査するものというべきであるから憲法21条2項の禁止する検閲に該当」するとして本件不合格検定処分は違憲だと判示しました。Apeman氏によると、この家永教科書訴訟の杉本判決も「幼稚な」判決で「これっぽっちも価値がない」ということになり、「現行教科書検定制度は合憲なのだから、検定不合格処分を(現行教科書検定制度との関連で)批判するには(i)現行教科書検定制度(ないしその一部)が違憲であることを新たに論じるか、(ii)検定不合格処分が現行教科書検定制度の要件を満たさないものであることを論じるか、いずれかを行なわねばならない」とでも言うつもりなのでしょうか? 沖縄戦「集団自決」問題での文科省の検定意見に対しても同様なことを言うつもりなのでしょうか? 歴史修正主義右翼を批判しているはずのApeman氏が歴史修正主義右翼が大喜びするであろう論理を提供することになっているのは残念なことです。

*3:ある法令の解釈が複数成り立つ場合、Aの解釈を採れば違憲だが、Bの解釈を採れば合憲なので、Bの解釈を採る限りにおいて法令そのものは違憲とはならないとする解釈手法。

刑事訴訟における伝聞証拠の概念(Apeman氏の誤り・その1)

 Apeman氏と言えばネットの論客として知られる人であり*1、反・歴史修正主義という点で私と同一の立場です。そのような人を批判するのはかなり気が引ける所があるのですが、これほどひどい間違いだらけのブログ記事を書いてネットに公開している以上、仕方がありません。
 ということで数回に分けて、取り上げてみます。

 そのApeman氏のブログ記事とはこちらです。↓

『Apes! Not Monkeys!』
小室直樹って…」
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C646496243/E735228537/index.html

これは贈賄側であるロッキード社のコーチャン、クラッターへの嘱託尋問調書が証拠採用された件を指していっているのだが、2人は裁判に証人として出廷してはいない。それゆえ、そもそも反対尋問が問題になることなどあり得ないのである。

※このブログ記事の続きは↓こちらです。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101008/p2

 問題になっているのは、いわゆるロッキード事件の刑事裁判における嘱託証人尋問調書の証拠能力についてです。
 さて、Apeman氏の上記記述ですが、「裁判に証人として出廷してはいない」のでしたら、その者らの供述は公判廷外での供述のはずです。その供述を書面化したものが公判廷に提出されたとしても反対尋問はなし得ません。そのように反対尋問をなし得ない供述証拠のことを伝聞証拠と言います。
 伝聞証拠は反対尋問権を行使しえないゆえにそれを証拠採用することは被告人の証人審問権を保障した憲法37条2項に違反しないかの問題が生じるとされます。従って、刑事訴訟法においても反対尋問をなし得ない伝聞証拠は禁止を原則としています(320条)。

 標準的な刑事訴訟法の教科書を見てみましょう。

「伝聞証拠とは、裁判所の面前での反対尋問を経ない供述証拠をいう。条文に即して定義すれば、公判期日における供述に代わる書面および公判期日外における他の者の供述を内容とする供述で、原供述内容をなす事実の真実性の証明に用いられるもの、である。例えば、証人Aが法廷で「友人のBが『Xの犯行を目撃した』と言っていました」と証言した場合、犯行目撃事実について原供述者であるBを反対尋問することはできないので、Aの供述は伝聞証拠である。このような「伝え聞き(hearsay)」の証拠であれば供述でも書面でも同じである。書面も、原供述者(書面作成者)に対する反対尋問をなしえない点では構造的に同じだからである。そして伝聞法則とはかかる伝聞証拠の証拠能力を否定する原則すなわち「伝聞禁止の原則」のことをいう(三二〇条一項)。」
(田口守一『刑事訴訟法』〔第三版〕弘文堂、321〜322頁)

 伝聞証拠原則禁止の実質的理由については同教科書に次のようにあります。

「伝聞証拠はなぜ禁止されるかというと、「伝え聞き」証拠では真実かどうかの点検ができないからである。
   (中略)
そもそも、供述証拠は、ある事実を「知覚」し、それを「記憶」し、それを「叙述」するという過程を経て証拠化されたものである。しかし、知覚の過程、記憶の過程、叙述の過程のそれぞれに誤りが介入しうる(見間違い、記憶違い、言い間違いなど)。そこで、このような供述証拠の各過程の誤りをチェックするのが反対尋問である。」
(同書、322頁)

 この伝聞法則(=伝聞証拠禁止の原則)と憲法の関係については、同教科書は次のように述べています。

「そして、被告人には証人審問権が保障されている(憲三七条二項)。この証人審問権の保障は、単に法廷に出てきた証人に対する反対尋問権を保障したのみでなく、およそ供述証拠を提供する者一般が証人というべきであって、その証人に対する反対尋問権を保障したものとみなければならない。伝聞証拠に即していえば、原供述者に対して反対尋問をする権利も保障されている。したがって、このような反対尋問権を行使しえない伝聞証拠に対して証拠能力を認めることはできない。このようにして、伝聞禁止の原則(三二〇条)は憲法に由来する原則ということができよう。」
(同書、322〜323頁)

 以上のとおり、「裁判に証人として出廷してはいない」のなら反対尋問が不可能なのですから、「反対尋問が問題になることなどあり得ない」どころか、その者の供述(即ち公判廷外での供述)を証拠として扱って良いかが被告人の反対尋問権保障との関係で大きな問題になります。被告人の反対尋問権の保障が問題になる典型的な場面です。

 まあ、憲法37条2項前段の刑事被告人の証人審問権の「証人」の意義について極端に狭く解釈し、証人として法廷に喚問された者のみだとする見解もなくはないですが(但し、この見解を採ったとしても公判廷外供述の証拠採用は憲法上の問題は生じなくても刑事訴訟法上の問題は生じえます。)、通説はおよそ供述証拠を提供する者一般だとしているのですから、「反対尋問が問題になることなどあり得ない」とのApeman氏の記述は明らかに誤りです。せめて、「被告人の反対尋問権の保障が問題になるが、これについて自分はこれこれこう解釈するので、この場合は違憲とはならないと考える」と言って欲しいところです。
 問題になっている嘱託尋問調書の証拠採用は合憲だとする結論自体は構いませんが、「裁判に証人として出廷してはいない。それゆえ、そもそも反対尋問が問題になることなどあり得ない」と言ってしまったのでは、刑事訴訟法の伝聞証拠禁止原則の意義や憲法の刑事被告人の反対尋問権保障の意義について全く理解していないということになります*2

 その他、Apeman氏はブログ記事の中で

必要に応じて弁護側が取り調べにあたった検事なり警察官を証人として申請することによって実質的な反対尋問的効果をあげることができるわけである。

と述べていますが、そのような場合に伝聞例外が認められるとの見解は聞いたことがありません。
 もし、原供述者に反対尋問しなくても、原供述を聴いた者(取り調べにあたった検事なり警察官)を反対尋問すれば原供述者に反対尋問するのと実質的に同じだとしてしまうなら、伝聞証拠禁止原則も刑事被告人の反対尋問権保障も意味がなくなってしまいます。いくらなんでも無茶と言うものでしょう。

要するに、反対尋問的性格の問いにさらされていない調書が証拠採用されることは日本の裁判では異例でもなんでもなく、それをもってしてロッキード裁判を「憲法違反」などというのはバカとしか言いようがないのである

しかしこの裁判を「反対尋問の権利が奪われたので憲法違反だ」とこの期に及んで主張するのは、繰り返すが、バカだけである。

 私自身は、ロッキード裁判における嘱託尋問調書の証拠採用は、伝聞例外にあたるものとして憲法違反にはならないと思っています。しかしながら、憲法違反の主張を「バカとしか言いようがない」と決めつけるのは如何なものでしょうか?
 まあ、「バカとしか言いようがない」「バカだけである」はApeman氏の主観的評価ですから勝手でしょうが、この問題についての憲法の教科書の記述を引用しておきましょう。

ロッキード事件丸紅ルート判決は、アメリカ合衆国において現地の証人に対し、訴追免除の保障を与えたうえで得られた嘱託尋問調書の証拠能力が争われたものであり、被告人側に証人に審問する機会が一切なかった点でも問題を含んでいた。
(長谷部恭男『憲法』〔第四版〕新世社、269頁)

 さらに、ロッキード裁判の最高裁判決*3における大野正男裁判官の補足意見も引用しましょう。

「判示第一についての裁判官大野正男の補足意見は、次のとおりである。
 私は、本件嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定する法廷意見に同調するものであるが、その理由とするところについて、私の見解を補足しておきたい。

     (略)

 二 しかしながら、捜査の端緒ないし捜査資料の収集として右のごとき嘱託証人尋問をし得るということと、その結果得られた資料を我が国の刑事裁判上事実認定の証拠とすることができるということとは別個の問題であり、異なった観点からの考察が必要である。
 手続の公正と証人に対する被告人の審問権を尊重すべき刑事裁判の本質的機能を考えるとき、本件嘱託証人尋問調書の証拠としての許容性は、以下の二点において否定されるべきである。
 一は、刑事免責を与えることによって自己負罪拒否特権を消滅させて証言させるというような我が国において認められていない制度によって得られた資料を、我が国の裁判において事実認定の証拠として採用することは、明文の規定によらないで、我が国内においても刑事免責制度を認めるのと同様の結果を招来することになりかねず、公正の観念に反する。この点は法廷意見の述べるところであり、私も同意見である。
 二は、本件嘱託証人尋問調書を事実認定の証拠とすることについては、被告人の反対尋問権及び対審権の保障という面から、問題があるといわざるを得ない。
 本件嘱託証人尋問は、東京地方検察庁の検察官の申請に基づく東京地方裁判所裁判官の嘱託により、被疑者及び弁護人の立会いなしに、すなわち、その審問を受けることなしに、カリフォルニア州中央地区連邦地方裁判所において、東京地方検察庁の検察官が列席して行われている。また、本件において、証人とされたC、Dはいずれも、もともと来日の意思を有せず、我が国の裁判所に証人として出廷する意思のないことを明示していた。
 嘱託証人尋問の根拠となる刑訴法二二八条二項は、第一回公判期日前の証人尋問に被告人、被疑者又は弁護人を立ち会わせるかどうかを裁判官の裁量にゆだねている。この規定が、反対尋問権を保障した憲法三七条二項に反しないとされるのは、反対尋問権は受訴裁判所の訴訟手続における保障であって捜査手続における保障ではなく、刑訴法二二八条は検察官の強制捜査処分請求に関する規定であって、受訴裁判所の訴訟手続に関する規定ではなく、その供述調書はそれ自体では証拠能力を持つものではないからであるとされている(最高裁昭和二五年(あ)第七九七号同二七年六月一八日大法廷判決・刑集六巻六号八〇〇頁)。
 しかし、前記両証人にっいて、我が国の法廷において、被告人及び弁護人がこれに対質して反対尋問をする機会がないことは、嘱託した当時からあらかじめ明らかであったのである。もっとも、嘱託証人尋問に際しては、証人の依頼した弁護士である代理人が在廷していたが、これは証人の法的利益擁護のためであって、場合によっては共犯者たる証人と利害が対立することのある被告人の法的利益を擁護するためのものではないから、これをもって反対尋問権の保障に資するものであるとは到底いえない。
 このように、当初から我が国の法廷における被告人、弁護人の審問の機会を一切否定する結果となることが予測されていたにもかかわらず、その嘱託証人尋問手続によって得られた供述を我が国の裁判所が証拠として事実認定の用に供することは、伝聞証拠禁止の例外規定である刑訴法三二一条一項各号に該当するか否か以前の問題であり、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ事案の真相を明らかにすべきことを定めている刑訴法一条の精神に反するものといわなければならない。

*1:戦争犯罪・戦争責任に関するブログhttp://d.hatena.ne.jp/Apeman/が有名です。

*2:嘱託尋問調書の証拠採用は合憲だとするなら、それは伝聞禁止の“原則”に対する“例外”なのですから、なぜその場合に例外が認められるかの論証が求められます。

*3:最大判平成7年2月22日刑集49-2-1http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319115515702127.pdf

判例と傍論

 「傍論に法的効力はない。」「だから傍論は裁判官の個人的な感想に過ぎない。」「傍論に意味などない。」
 ネットでよく目にする言説です。
 判例とは判決の結論を導くうえで意味のある法的理由づけのことであり、判決文中これと関係ない部分のことを傍論と呼ぶようです*1。傍論とは「その事件の論点についての判断でない説示」のことだとも言われるようです*2
 この判例と傍論の関係については詳細な解説がされているブログ記事がこちらにあります。↓

『日々拙考』
判例と傍論について」
http://d.hatena.ne.jp/nns342/20100104/p1

 このブログ記事で述べられているように、「傍論には法的拘束力はない」という主張それ自体は正しいですが、「判例には法的拘束力はあるが、傍論には法的拘束力はない」という意味で「傍論には法的拘束力はない」と言っているとすれば正しい理解ではないと思われます。
 詳細は上記の日々拙考さんのブログに譲りますが、結論として言えば「日本においては判例にも傍論にも法的拘束力はない。しかし判例には事実上の拘束力があり、傍論にも判例ほどの拘束力はないかも知れないが、それでも強い影響力を持つので無視できない」となるでしょうか。
 私個人の見方をもうちょっと噛み砕いて述べると、判例については

「日本においては下級裁判所は裁判をするにあたって最高裁判所判例に無条件に従うべきことは法的には要求されていない。しかし仮に下級裁判所最高裁判所と異なる判断を行ったとしても(最高裁判所自身が判例変更を行わない限り)結局は最高裁判所によって覆されるのだから、その意味で最高裁判所判例は事実上強い拘束力を持つ。」

となりましょうか。
 傍論については

「傍論は当該事案の解決に直接必要のない法的判断であるものの、『今後これについてはこう判断しますよ』と最高裁判所が示したものと解され、従って仮に下級裁判所がそれとは異なる判断を行ったとしても結局は最高裁判所によって覆されることになる蓋然性が極めて高いと言える。その意味で傍論には決して無視できない影響力があり、結局のところ最高裁判所の判決中の傍論部分も判例だと受け止めても構わない。」

ということでしょうか。
 これらは私個人の理解ですので、もしかしたら間違っているかも知れません。(もし間違いがありましたら、ご指摘いただけると幸いです。)

 さて、この傍論について日々拙考さんのブログでも紹介されているように元最高裁判所調査官の中野次雄氏は次のように述べています。

 判決・決定の中でどれが判例でどれが傍論なのかについて問題があることはすでに述べたが…、その点につきいずれの立場をとるにせよ、傍論というものが存在することはたしかである。それは、その裁判理由をより理解させ、その説得力を強めるために書かれるのが通例で、いうまでもなく判例のような拘束力を持たないが、将来の判例を予測する資料としては意味をもつ場合があることに注意する必要がある。
 傍論といえども大法廷または小法廷の裁判官の全員一致もしくは多数の意見として表示されたものである。そして、それは将来他の事件を裁判する際にはそれ自体判例となるか少なくとも判例を生み出すものを含んでいることが少なくない。それには、判例のようなあとで変更されないという制度的保障はないが、その意見に加わった裁判官がその見解を変えることは少ないだろうと考えると、それもまたその程度において 将来の判例を予測する材料だということができよう…。その意味で、傍論にも1つのはたらきが認められるのである。
(中野次雄編『判例とその読み方〔3訂版〕』(有斐閣、2009年)97頁)

 ここで中野次雄氏が述べられている、傍論が将来の判例を予測する資料になりうることの具体例を見てみたいと思います。
 紹介するのは民法判例ですが抵当権に基づく不法占拠者に対する明渡請求についての最高裁の1999年(平成11年)判決*3です。
 事案は次のようなものです。

「XはAに対する貸付債権を担保するため、A所有の甲不動産に抵当権の設定を受けた。その後、Yが甲不動産を権限なく占有をはじめた。Aが債務の弁済を怠ったためXは抵当権を実行した。ところが、Yが甲不動産を占有しているため買受希望者が現れず競売手続の進行が阻害されるに至った。そこでXは、AのYに対する妨害排除請求権を代位行使して、Yに対して甲不動産を明渡すよう求めた。」

 それまで最高裁は、抵当権は目的不動産の使用収益を設定者に委ねておいて交換価値から優先弁済を受ける権利であるという性質を有するから、およそ占有関係に干渉できないとして、上記のような請求は認められないとの立場でした*4
 ところが、最高裁は大法廷を開き、判例変更しました。それが1999年(平成11年)判決なのです。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120952775324.pdf

三者抵当不動産を不法占有することにより、競売手続の進行が害され適正な価額よりも売却価額が下落するおそれがあるなど、抵当不動産の交換価値の実現が妨げられ抵当権者の優先弁済請求権の行使が困難となるような状態があるときは、これを抵当権に対する侵害と評価することを妨げるものではない。そして、抵当不動産の所有者は、抵当権に対する侵害が生じないよう抵当不動産を適切に維持管理することが予定されているものということができる。したがって、右状態があるときは、抵当権の効力として、抵当権者は、抵当不動産の所有者に対し、その有する権利を適切に行使するなどして右状態を是正し抵当不動産を適切に維持又は保存するよう求める請求権を有するというべきである。そうすると、抵当権者は、右請求権を保全する必要があるときは、民法四二三条の法意に従い、所有者の不法占有者に対する妨害排除請求権を代位行使することができると解するのが相当である。

 ところで、この判決は次のようにもあります。

なお、第三者抵当不動産を不法占有することにより抵当不動産の交換価値の実現が妨げられ抵当権者の優先弁済請求権の行使が困難となるような状態があるときは、抵当権に基づく妨害排除請求として、抵当権者が右状態の排除を求めることも許されるものというべきである。

 この「なお」以下はこの事件の論点(所有者の不法占有者に対する妨害排除請求権を抵当権者が代位行使することは許されるか)についての判断でない説示なのですから傍論です。本件事案は抵当権者Xが代位請求だけを主張したものであったため代位請求の可否だけを判断しても良かったはずなのに、最高裁は傍論において抵当権に基づく物権的請求権(妨害排除請求権)の行使も認められると述べたわけです。
 そして、その6年後の2005年に最高裁は(1999年大法廷判決の事案とは異なり適法な賃貸借の事例で)

抵当権設定登記後に抵当不動産の所有者から占有権原の設定を受けてこれを占有する者についても,その占有権原の設定に抵当権の実行としての競売手続を妨害する目的が認められ,その占有により抵当不動産の交換価値の実現が妨げられて抵当権者の優先弁済請求権の行使が困難となるような状態があるときは,抵当権者は,当該占有者に対し,抵当権に基づく妨害排除請求として,上記状態の排除を求めることができるものというべきである。なぜなら,抵当不動産の所有者は,抵当不動産を使用又は収益するに当たり,抵当不動産を適切に維持管理することが予定されており,抵当権の実行としての競売手続を妨害するような占有権原を設定することは許されないからである。
 また,抵当権に基づく妨害排除請求権の行使に当たり,抵当不動産の所有者において抵当権に対する侵害が生じないように抵当不動産を適切に維持管理することが期待できない場合には,抵当権者は,占有者に対し,直接自己への抵当不動産の明渡しを求めることができるものというべきである。

と述べて、抵当権に基づく物権的請求権(妨害排除請求権)の行使を正面から認めました*5
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120711586365.pdf

 これが傍論の持つ将来の判例の予測機能というものでしょうか*6

*1:芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法〔第三版〕』(岩波書店、2002年)361頁の定義によります。

*2:中野次雄編『判例とその読み方〔3訂版〕』(有斐閣、2009年)38頁

*3:最大判平成11年11月24日民集53-8-1899

*4:最判平成3年3月22日民集45-3-268

*5:最判平成17年3月10日民集59-2-356

*6:なぜ最高裁は1999年(平成11年)の大法廷判決であえて傍論を述べたのでしょうか? 1999年(平成11年)判決は抵当権者が代位請求だけを主張したものであったため債権者代位権行使の可否を判断せざるを得なかったのでしょうが、債権者代位権だとその被保全債権はいったい何か?という問題が生じます。物上保証の場合は被担保債権というわけにはいかず、そのため奥田昌道裁判官は補足意見で「担保価値維持請求権」という概念を持ち出していますが、これには権利の内容がはっきりしていないとの批判が出てきます。「本件では代位請求に乗せるため少々無理とも言える技巧をしたが、これは物権的請求権が認められれば不要となる話だ。物権的請求権(妨害排除請求権)行使も認めるから今後はそれでやって欲しい」と最高裁は言っているような気がします。